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松屋文書

古文書

江戸時代 松屋文書

松屋は放生津中町に住んだ有力町人で、町人自治の頂点に立つ放生津町年寄を輩出しました。放生津八幡宮祭の曳山行事で巡行される中町曳山の建造を主導したと伝えられています。1775年(安永4)の曳山騒動をはじめとする町政文書、放生津潟周辺の新田開発に関する文書があります。また加賀藩の塩専売制のもとで塩問屋に指定されたため、加賀藩四十物塩の流通と四国(瀬戸内)産の塩の流入関係資料も含まれます。(525通)

 

 

【書き下し】1775年(安永4)曳山騒動関係文書

〇1775年(安永4)7月 八幡宮祭礼の曳山由来につき書上

放生津八幡宮祭禮八月十四日十五日相勤め申す刻、車山引き申す儀、いかがのいわれを以て引き来り候かな、相糺し申し上ぐべき旨仰せ渡せられ、畏み奉り、則ち右八幡宮縁記起など相しらへ恐れながら左ニ書き上げ申し候、

一、放生津の儀は先年奈呉浦と申して家数多き所にて御座候、八幡宮根元之儀、大伴宿根中納言家持卿、越中国司として、当国に居住御座候処、宇佐八幡宮へ御宿願これあり、天平十九年当所へ八幡宮を移させられ大社御建立遊せられ、もっとも八月十五日放生会御祭礼始め、則ち所の名も放生津と改めさせられ、御寄進の御宝物もあまたこれあり、其外旧規書物など御座候処、なかんづく兵火にて滅亡いたし、社頭かすかに相成り候処、天正年中神保越前守様御再興これあり候、以来築山・曳山年々引き来り申し候間、当年も前々の通り山引申すように仰付なされ下さるべく候、当所の儀、猟業のみ渡世仕り申すに付き、放生会重儀に奉り御座候、何分にも是等之趣聞し召し分けせられ下され候様に一統所の者願い奉り候、以上

安永四年七月

放生津町年寄 弥兵衛 (印)

同  武兵衛 (印)

算用聞 吉兵衛 (印)

同   宗助 (印)

肝煎  善七

同  善九郎

組合頭 吉兵衛

同  武八郎

同  甚六

同  理兵衛

同  十郎右衛門

同  彦兵衛

同  理八郎

同  七郎兵衛

同  傳七郎

同新町肝煎 彦五郎

組合頭 喜兵衛

同  与左衛門

同  五左衛門

同  勘右衛門

御郡 御奉行所

 

〇1775年(安永4)8月13日付 石動・城端・放生津神事の節、高岡車と似寄の車指止方申渡書

 

御席より前田数馬殿・九里幸左衛門殿まで相渡し申す御紙面の写

今石動・城端神事の節、車山曳候様子相尋ね候所、諸役人書付御手前紙面を添指し出され候書付之趣に候えども、御前代仰出さる等とこれあり、又者奉行抔より急度申し渡し曳き候車とは相見えず、高岡神事の節曳き候車の義は、瑞龍院様高岡御在城の節仰渡せられ候趣もこれあり、格別の体に相聞き候所、石動・城端祭礼の節高岡車山に似寄り車を曳き候所、かれこれ出入りこれある様子にて候条、右似寄之車は指し止め、地車を以て曳き渡し申すべき条、若今年祭礼までに日数これ無く、指しつかえ義にもこれあり候はば、当年の義は有り合わせの車に板を打ち曳き渡し申す様に申し渡すべき候、以後は猶更とくと詮義を遂げ、追て申し渡すべき事、

未 八月十三日

 

又壱通、大野仁兵衛殿江相渡シ申す御紙面の写

各支配所、高岡祭礼の節、車山曳き候う謂の者、且近年(今)石動・城端・放生津神事之節、高岡車山に似寄り似寄之車曳き候に付、諸役人書付に各紙面を添え指し出さる段、太□□之趣に付き、詮議を遂げ、高岡車山に似寄り候う車は指し止め、地車を以て曳き渡し候う様に申し渡すべく候、以後之義は猶更とくと詮議を遂げ申し渡すべき候趣など、別紙覚え書き写し候通り、前田数馬・九里幸左衛門等へ申し渡し其意を得べき事

 

〇 1775年(安永4)9月 放生津町祭礼の車に板打ち付けざるにつき申渡書

放生津祭礼の節引き渡し候車の儀に付き、前月晦日紙面を以て申し越され候故、紙面之趣は承り難き届け候条、地車を以て引き渡し候様相心得らるべく候、もっとも当年の儀は有り合わせの車に板を打ち、引き候儀は勝手次第の旨、当六日拙者より返書に及ぶも定て披見これあるべきと存じ候、然る所当十五日祭礼の節、右有り合わせの車に板も打申さず近年の通り引き渡し候由、相聞へ候、如何の趣の候之哉、委細の様子早速申し聞かせらるべく候事、

九月

 

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