学ぶ
知れば知るほど面白い!昔の新湊を知ろう。
鎌倉時代後期から室町時代には「放生津(ほうじょうづ)」と呼ばれ、
大きな船が行き来する、大きな湊(みなと)があった!新湊は、むかし海辺に面した町として「奈呉(なご)」と呼ばれ、鎌倉時代の終わりごろから室町時代にかけて「放生津(ほうじょうづ)」と呼ばれるようになります。新湊は、海で魚をとる「漁船(ぎょせん)」や、陶磁器(とうじき)や食料などの物資(ぶっし)を運ぶため、日本海を行き来する「大船(おおぶね)」が、たくさん港を出入りしていました。やがて、越中国(えっちゅうのくに)(現富山県)の中でも一番大きな港町となり、越中国の政治・経済・文化の中心地として賑(にぎ)わっていきました。
室町幕府の10代将軍「足利義材(あしかがよしき)」が
放生津にいたこともあったんだ!船乗り(ふなのり)の仕事は、いつも危険がいっぱい!
安全に航海(こうかい)ができるようにと、海にお祈りをしていた平安時代後期から鎌倉時代にかけて、日本に仏教が広まります。漁師の仕事はいつも遭難(そうなん)の危険と隣り合わせだったため、新湊では昔から海への信仰心(しんこうしん)が厚(あつ)く、今でも海にまつわる民俗行事(みんぞくぎょうじ)が受け継がれています。仏教には『殺生禁断(せっしょうきんだん)』の教えがあり、新湊の漁師たちは、1年に1回、捕まえた魚を神さまにお供えして、海に出る漁師たちを守ってくれるようにと神さまに祈りを捧げ、その期間が終わったら生きたまま海に放流(ほうりゅう)する行事を行っていました。
この行事は生き物を放つ会と書いて「放生会(ほうじょうえ)」と呼ばれ、
その行事が行われる津(づ)(港)ということで、新湊は「放生津」と呼ばれるようになったんだ。放生津にいたこともあったんだ!
むかしは水がいっぱい!大きな潟(かた)だった。
田んぼができて無くなっていったよ。奈良時代から地面の中にも上にも水がいっぱいある水郷地帯(すいごうちたい)として「射水」と呼ばれ、稲刈(いねかり)りの頃まで水がいっぱいで、刈り取った稲や物資も小舟で運んでいました。多くの川が放生津に流れ込みますが、海への排水(はいすい)は放生津の内川(うちかわ)だけだったので、むかしの射水の村々は、いつも水害の危機にさらされていました。これでは土地が使いにくいため、江戸時代後期には、堀岡又新村(旧新湊市)で、放生津を埋め立てて富山新港(とやましんこう)が開かれました。
ジオラマのリアルさにびっくり!
むかしの人は船で移動していたんだね!
地図をつくったすごい人!石黒信由を知ろう
石黒信由はとにかく数学が得意!
日本だけでなく、ヨーロッパの数学も学んでいたんだ。富山県射水市は、むかし越中国射水郡(えっちゅうのくに いみずぐん)と呼ばれ、石黒信由はその高木村(たかき)で村役人(むらやくにん)の家に生まれました。村役人は農民から税を集めるため、田んぼの広さ・高さ・長さを測って地図をつくり、和算(わさん)でその田んぼから取れる米の量を計算していました。やがて、ヨーロッパの新しい数学を積極的に学んだ信由は、三角関数(さんかくかんすう)を応用するして、より精度(せいど)の高い地図をつくります。
肖像画(しょうぞうが)でも
そろばんを持っているね!
信由が学んだことは田んぼの開発や、川の整備(せいび)など
人びとの暮らしにとても役に立ったよ。勉強熱心な信良の和算や測量は、単なる学問の知識としてだけではなく、村の田んぼの検地や新田(しんでん)の開発(かいはつ)、用水(ようすい)・河川(かせん)の整備、土地の境界(きょうかい)がどこかをめぐった人びとの争いの解決などに、ひろく活かされました。
これは御蔵(おくら)(お米を保管するところ)をたてるときに
信由が作った絵図(えず)です。現代の設計図だね。そしてついに富山・石川の地図作りをすることに!
とても正確な地図を作ったよ!和算やヨーロッパの新しい数学(現三角関数など)を用いてつくった信由の地図の正確さが加賀藩(かがはん)から認められ、加賀藩の正確な領地(りょうち)を記(し)した地図をつくるように命(めい)じられます。そして、信由は59歳から三州(さんしゅう)の測量をはじめます。加越能三州(かえつのうさんしゅう)とは、むかしの越中(えっちゅう)・加賀(かが)・能登(のと)のことで、今の石川県・富山県全域にあたります。信由はこの三州を道線法(どうせんほう)・交会法(こうかいほう)と呼ばれる二つの測量法を組み合わせて、現在とほぼ変わらない正確な地図をつくりました。
今の地図と見比べてみてもほとんどずれていない!とても正確だったんだね。
日本地図を作った伊能忠敬と出会って、
正確な地図をつくるやり方を教わった!享和(きょうわ)三年(1803年)、日本地図をつくったとして有名な伊能忠敬が測量のため、高木村を訪れます。そこに駆けつけた信由は、忠敬が持っているすばらしい測量、天体観測の道具の数々をみて感動し、偉大な忠敬の仕事ぶりを見学させてほしいと頼み込む。忠敬は初対面ながらも、信由のことを面白い人物だと思い、勉強熱心な姿に関心し、測量の道具や方法について教えていく。信由はその中で道具の改良(かいりょう)を思いつき、自身(じしん)の測量や地図づくりに役立てていくことになります。
博物館で実際にさわれるものもあるよ!