足利将軍がやってきた(3)
歴史
足利義材は出陣先の河内で細川政元の軍と戦いましたが敗れてとらえられました。しかし義材は閉じ込められていた細川氏の家臣の家から脱出し、放生津にやってきたのです。
放生津には、畠山政長(はたけやま まさなが)の家来である神保長誠(じんぼ ながのぶ)がいました。義材は、政長と手を結んで細川方を抑えようとしていました。
当時の放生津は日本海を行き来する船の拠点として栄えていました。神保長誠は港を支配し、周辺の荘園を実効支配するなどして大きな経済力を築いていたのです。
また射水地域は室町幕府成立期から幕府関係の武士や寺社の領地が多く設けられていたため、将軍としての独自の経済基盤として期待していた可能性があります。さまざまな思惑の中で、義材は放生津にやってきました。放生津に来た義材の動きは、戦国日本の台風の目となりました。特別展では、政変と放生津の義材のようすを紹介しました。(学芸員 松山充宏)
写真:神保長誠像 (富山市 本覚寺蔵)