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芳春院(まつ)書状

古文書

1600~1617年(慶長5~元和3) 芳春院(まつ)書状(ほうしゅういんしょじょう)

芳春院は前田利家の夫人です。豊臣秀吉、続いて利家が没した後、台頭してきた徳川家康は前田家に従属を迫りました。利家の跡を継いだ利長は、生母の芳春院を家康の本拠である江戸へ人質として送りました。芳春院は、江戸での日々の様子や入手した情報をかな書きでしたためた書状を子や縁者に多数送りました。当館に所蔵する45通は、利家と芳春院の娘である春香院(ちよ)や、その夫である村井長次に送られたものの一部です。(木倉豊信所蔵資料)

 

 

〇 (慶長十三年か)十七日 村井長次あて

三日のひるよりはんまて、みゝたらい八たひかへ申候か、それよりハよるの四つしふんまてハ、ながすことくにて候、されとも、わか身きとくニ、大うす所ニハきとくなるくすりか御入候まゝ、とい候へと申候て、ぬいかちきにまいりといて、うかいにしまいらせ候、くすりまいりて、つきいたすことくなるちか、そのまゝとまり申候つる、そのうちハくすりものまれ候ハす、はやミやくきれ候て、身かいしのことくニなり、水はかりなかすほと、身よりいて申候、よあけ候て、ミやくか少つゝ出申候よしにて候、それにミなゝゝもきもをつふし申候、ふしきなるわつらいにて御入候つる、かしく、

ハやゝゝとひきやく給候、御あんし候ハんと、これよりも文をまいらせ候つる、いよゝゝちからつき、心もよく御入候事にて候、ついたちよりおそろしきわつらい出申候、くすししゅハ、きのつかれにちかさくらんしていて申候、さなくハ、わろき事になり候ハんか、きのつよきゆへニ、ほんふく申候と御申候、かしく、

十七                                               より

いつも殿御返事                  はう

 

(大意)

早々と手紙をいただきました。ご心配かと思いこちらからも手紙を認めました。今は力も付いて気持ちも穏やかです。一日より恐ろしい病に冒されました。医師たちが言うには、気力が衰えているところに血が錯乱して出血し、悪いことになるかも知れないと思ったが、気が強いので全快したとのことです。

三日の昼より晩まで奥歯からの出血がひどく、耳盥を八度も替えましたが、夜の四つ時ごろまではまるで流れるようでした。しかし、有難いことに、キリスト教会には不思議な良い薬があるから、聞いてみたらどうかというので、縫殿が直接取りに行き、その薬でうがいをしたところ、湧き出ていた血は止まりました。その後、薬を飲むこともできず、脈が途切れて体が石のようになり、水ばかり体から流れるように出ていきました。ところが、夜が明けると脈が少しずつ戻ってきました。これには皆も驚いていました。なんとも不思議な病でした。

 

〇(慶長八~九年か)四日 千世あて

返々、いせんひんきニゆわかたへやり申候文、そなたまてまいらせ候か、まいりつき申候や、とをきところハ何もしりまいらせ候ハす候、ゆわもまいり候て、よろつくわしく申まいらせ候へく候、そくさいニ成申、のほりたさかすゝゝにて候、ゆニくたひれ申、さうゝゝ申まいらせ候、かしく、

文給候、御うれしく思ひまいらせ候、そこもと何事候ハぬよし、まんそく申候、わか身もかのわつらひさし出申候ほとに、あたミへとうち申候事にて候、よく候へかしと思ひまいらせ候まてにて候、それの身上の事も、ひもし御のほり候ハヽ、よきやうニ御たんかう候へく候、さてゝゝうらめしき世中や、めつらしからぬ事なから、しんきにて候、ゝゝ、かしく、

四日                   あたミより

おちよ返事まいる                はう

申給へ

(大意)

お手紙いただきました。うれしく思います。そちらは変わりない様子、安心しました。私は例の病が出たので熱海へ湯治に来ています。少しでもお湯の効き目があってほしいと思うばかりです。あなたの身の振り方について、利長が江戸に来られたら、良いように相談しましょう。うらめしい世の中、いつものことですが、気がもめることです。

追伸、かつて岩にことづけた手紙はあなたに届いたでしょうか。遠く離れていると、何もわかりません。岩も熱海に来て、いろいろ詳しく話してくれるでしょう。はやく元気になって、江戸へ戻りたくてたまりません。湯浴みに疲れ、取り急ぎ認めました。熱海より。

 

〇(慶長十六~十八年)八日 千世あて

ひもしにあいてほとけになりたく候、せしやう大めうともかなくなり候へハ、一しほゝゝゝあんしいりまいらせ候、いかやうのていにても、ひもしいのちさへ御入候へハよく候か、いかゝとあんし申候まてにて候、ふるまいなともさうさともとをしはかり申候、これよりくわしく申まいらせ候へく候、

一ふて申まいらせ候、たひゝゝの文とゝき申候、たかをかにて御ふたりきけんよく御とりはやしのよし、かすゝゝ御うれしく思ひまいらせ候、御れいに文をまいらせ候、十さこけまてまいり候よし、これもよく候、ひやうふもし合よく候ハんと思ひまいらせ候、ひもしやうたいよくミられ候へく候、うら山しく思ひまいらせ候、われゝゝもあわれのほり候て、かしく、

八日                             より

おちよまいる ちま                   はう

申給へ

(大意)

一筆申し上げます。たびたび手紙が届きました。高岡にて貴女たち夫婦とも機嫌良くにぎやかにお過ごしとのこと、たいへんうれしく思います。お礼に手紙を送ります。長好連の後家、福まで高岡に来ているとのこと、これも幸いです。村井長家も幸運だと思います。利長の様子を側でよく見ることができるでしょう(看病できるでしょう)、うらやましく思います。

私も是非とも高岡へ行って、利長に会ってから仏になりたいと思います。世間で大名たちが亡くなったと聞けば、ますます心配です。利長はどのような状態でも生きていてさえくれればいいのですが、どうであろうかと心配するばかりです。行動(何をするに)も、手のかかることと推量しています。詳しいことは、また申し上げます。

 

〇(慶長十三年) 千世あて

返々、そうほに御申候て、こそてとものおなかあつらへ候て、つませ候て御おき候へく候、はやゝゝすゝしくなりまいらせ候、ひもしもそくさいと申候、まんそく申候、われゝゝもそくさいの事にて候、御心やすく候へく候、いせんも申候あいらしきこせう候ハヽ、おんなもおとこもほしく思ひまいらせ候、御あつらへ候へく候、かわち殿御事、中々申候ハんやうもなく候、わかミかふわるく候、ふかわるく候へハ、さまゝゝつゝき申候、八てうしまへ、うちまき、そのほかかたひら・れうしなとのやうなる物まてとゝのへ、こめも何か百ひやうほと御入候、これにて、ことし・めうねんのよく候ハんと思ひまいらせ候へハ、大くわんこなたのふなつきにてはて申候、やり申候ものも何となり候や、しらす候、京へハかくし申候、なかゝゝの事にて候、かしく、

一ふて申まいらせ候、やすけかみへのほり申候か、ミまいとてこし申候、思ひまいらせ候よりハ、ほんふく申候、よろつそなたに御きも入候よし申候、いよゝゝ御めかけ候へく候、いつも殿もねんころのよし、かたりまいらせ候、いよゝゝいけん御申候て給候へよし、よく御申候へく候、かしく、

より

おちよまいる ちま                   はう

申給へ

(大意)

一筆申し上げます。篠原弥助が上方へのぼったのち江戸へ見舞に来ました。思ったより病気が治っておりました。何事もあなたのおかげとのこと、引き続き世話してください。夫の村井長次殿も懇意にしてくれると語っていきました。ますますご助言下さるよう、貴女からも長次殿に伝えてください。

追伸、北村宗甫に命じて小袖用の綿を誂え、摘ませておいてください。早くも涼しくなってきました。利長も元気とのことで満足に思います。私も元気ですから安心してください。以前にも言いましたが、かわいらしい小姓がいたら男も女も寄越してください。頼んでおきます。土方雄久殿が亡くなったことは、言葉もありません。巡り合わせが悪かったのでしょう。運が悪いと良くないことは続くものです。八丈島にいる宇喜多秀家殿のもとへ、白米や帷子(単衣)、料紙などを調え、米も数百俵ほど送るよう手配しました。これで今年と来年分は足りると思ったのですが、代官がこちらの船着場で亡くなり、遣わしたこれらのものもどうなったのかわかりません。「京」へは内緒です。思うようにはいかないものです。

 

〇(慶長十九年~元和三年) 春香院(千代)宛

まつひやうしかミもまいらせ候、けたいわこれに御入候へく候、そなたハけふか、ついたち候や、

けんし出き申し候、そなたにて御とちさせ候ハんや、なり候ハすハ、こなたへ給候へく候、とちさせ申候へかし、そなたのけんし一さつそへて給へく候、ほんにミせ申し候へく候、かしく、

より

しゆんもしへまいる                                              はう

申給へ

(大意)

源氏物語の写ができました。あなたの方で綴じさせることができますか。できなければ、こちらへ渡してください。綴じさせます。あなたが持っている源氏物語一冊も添えてください。手本に見せようと思います。まず、表紙用の紙も差し上げますので、外題はこれに付けてください。あなたは今日はお留守でしたかしら、それとも一日でしたかしら。

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