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絵図(広域地図) 石川県

分間方等御内御用留帳

表紙
 文化九年壬申三月  
分間方等御内御用留帳
       石黒藤右衛門
 
                  
 土佐守様御家来復古方役今村清右衛門殿、山口次内殿ゟ田中村
 小四郎伝言ニ而、能美郡内検地方絵図御用等相済候ハ、御用
 有之旨ニ而、三月廿九日昼八ツ半時頃、今村清右衛門殿宅へ罷上り
 申候、落付酒吸物取肴等、夫ゟ御飯御振舞ニ、又酒肴等被下候、
 其上金子百疋壱符被下候、皆々土佐守様御指図之旨被仰候、其節
 御尋之旨左之通、
一、高木村藤右衛門ハ、御高百弐拾石計作配仕、村肝煎相勤申旨、田中村
 小四郎ゟ先達而被申上置候、
一、高木村藤右衛門金沢旅宿ハ、下今町鶴屋平助方ニ御座候、
一、高木村ハ高岡ゟ道程弐里余、在所ハ高岡ゟ一里東へ往還筋行
 大門新町ゟ壱里余、高木村御座候、
一、射水郡下条村弥二郎組ニ而御座候、
                   
一、高木村藤右衛門算法之師匠ハ、富山御家中足軽中田文蔵ニ御座候、
 中田氏ハ江戸天文家山路久次郎弟子、山路死後ハ藤田権平ゟ
 伝授仕申由申上候、但中田文蔵ハ病死被致候而拾ケ年余ニ相成
 申由申上候、
一、町見ハ何レゟ習候哉被申聞候ニ付、町見ハ中田氏 通例之習ヒ、
 或ハ量地指南前編後編、町見弁疑等書籍見請申候得共、
 格別之義無御座候、当時相用ヒ申分間方ハ、自分未発ヲかへ
 申事ニ御座候、
一、今村清右衛門殿ハ足痛御座候ニ付、山口次内殿并私相同し磁石
 を以、土州様家中屋敷馬場ゟ今村氏宅前迄道筋分間
 仕、此場所之絵図此元指図ニ而、山口次内殿墨引絵図
 被相調申候、夫々分間方之事咄申候、
  但、右磁石ハ此方ゟ高岡ニ而為致、本江村惣助方へ被相求候分、土州様ヘ被上置候
  磁石ニ御座候、
                   
一、能美郡出合嶋之内検地絵御出候、打立帳ニ而絵図与合不申所々
 御尋ニ付、下絵図吟味相調申候而も、すき写ニ仕候時分、絵図紙少し
 ニ而も動キ候得共、少キ場所絵図間違申候、旦又至テ少キ場所ハ、
 分間ゟも少し太キ相調不申候而ハ難見分ニ付、分間ヲはなれ
 相調申候、左様之所ハ此三ケ所壱打ニ仕候得共、歩数分間之通りニ
 可相成与申候、則壱打ニ相しらへ候得者歩数合申候、夫々申入候所
 合点行申由被申聞候、
一、水戸ノせき水ト申人著日本絵図、同舟路相記申日本絵図
 弐枚御出候、此絵図国々別々境御座候、此道理を以御領国
 絵図相仕立候ハ丶、可相成哉ノ御尋御座候、成程壱郡宛相調合せ
 申候得者、合可申義ニ御座候得共、分間絵図其人ニよりて
 合不合御座候、是ハ大工同し道具ニ而細工仕候得共、人ニよりて
                   
 細工善悪出来可仕と同し事ニ御座候、又山形他国境全ク分間
 いたし候義、谷峯森林等ニ指支、容易之義ニ而ハ無御座候、
 早ク御領国絵図御出来可被遊候義ニ候ハ丶、先ツ往来筋、宿駅、
 海辺村々、他国ヘ之通路道分間ニ相認候得者、御領国宿駅、
 海辺慥ニ相認、他国山境ハ其越道ノ所ニ而分間を以見計り
 候ハ丶、大躰之絵図ニ相成可申候、其上ニ而郡々ゟ出申絵図を以、
 村々并川筋等入申候ハ丶可然哉旨申上候、
一、山口次内殿分間之義大躰合点行候得共、是ニ而ハ色々指閊
 可申義御座あるへき候間、重而御尋可申旨被申聞候、
 右咄居候所、夜四つ過ニ相成申ニ付御暇申、旅宿へ罷帰申候、
  〆磁石ハ高岡御馬出町錺屋清六細工之由申上候、

前田土佐守様の家来で復古方役人の今村清右衛門殿、山口次内殿から田中村
小四郎への伝言で、能美郡の内検地方絵図御用等が終わったら御用が
あるとのことで、三月二十九日昼一時頃に今村清右衛門殿宅へ参上
しました。落付、酒、吸物、取肴等、そのあと御飯を振る舞われ、また酒肴等も頂戴いたしました。
そのうえ金子百疋(金一歩)を賜わり、すべて土佐守様のご指示との仰せでした。そのとき
お尋ねの趣旨は左のとおりです。
一、高木村藤右衛門の持高は一二〇石程で、村肝煎を勤めていることは、田中村
 小四郎より先日申し上げてあります。
一、高木村藤右衛門の金沢での旅宿は、下今町の鶴屋平助方です。
一、高木村は高岡から二里余です。在所は高岡から東へ北陸街道を東へ一里、行ったところの大門新町から一里余のところに高木村があります。
一、高木村は射水郡下条村弥二郎組に属しています。

一、高木村藤右衛門の算法の師匠は、富山藩足軽の中田文蔵です。
 中田氏は、江戸の天文家の山路久次郎の弟子で、山路没後は藤田権平から
 伝授されたと申し上げました。ただし、中田文蔵は病死されて一〇年余になる
 と申し上げました。
一、測量は誰から習ったのかとお尋ねになられましたので、中田氏から通例の稽古、
 あるいは『量地指南前編・後編』、『町見弁疑』等の書物を読みましたが、
 特別のことはありません。いま用いている測量術は、自分で工夫を凝らした
 ものです。
一、今村清右衛門殿は足が痛いとのことで、山口次内殿と私がともに磁石
 を用いて土佐守様の家中屋敷馬場から今村氏宅前までの道筋を測量
 しました。この場所の絵図は私の指示で山口次内殿が墨引きの絵図を
 作られました。いろいろと測量のことを話し合いました。
 ただし、この磁石は私が高岡で作らせ、本江村惣助に求められたもので、土佐守様ヘ差し上げた
磁石です。


一、能美郡出合嶋村の内検地の絵図を出されました。打立帳と絵図が合わないところを
 お尋ねられたので、下絵図を吟味して作っても、上から重ねて写すときに、絵図紙が少し
 でも動くと狭い場所の絵図は実際とは異なってしまいます。また、きわめて小さい場所は
 縮尺よりも少し大きくしなくては見分けることが難しいので、縮尺にこだわらずに
 作製しました。このような所はこの三か所を一打にすれば、縮尺のとおりの歩数に
 なると言いました。すなわち一打に作ったならば歩数は合います。それぞれ申し入れたところ、
 納得したと仰せられました。
一、水戸の赤水という人が著した日本絵図と舟路が記された日本絵図
 二枚を差し出されました。この絵図には国々の境が引かれています、この道理によって御領国の
 絵図を作製することができるかとお尋ねになられました。いかにも一郡ずつ作って合わせ
 れば、合うはずですが、測量絵図は作る人によって
 合うところと合わないところが出てきます。これは大工が同じ道具を使って細工しても、人によって
 細工の善悪が出来るのと同じことです。また山の形や他国の境をすべて測量
 することは、谷・峯や森林等に遮られて簡単なことではありません。
 短期間で御領国の絵図を作製されるのであれば、まず往来筋、宿駅、
 海辺の村々、他国への道筋を測量していけば、御領国の宿駅や
 海辺が明確になり、他国との山境はそこを越える道筋に沿って測量
 すれば、およその絵図になります。そのうえで各郡から提出された絵図を利用して、
 村々や川筋等を書き入れていけばよいのではないかと申し上げました。
一、山口次内殿は測量について、およそ理解されましたが、このことにはいろいろとさしつかえる
 ことがあるので、改めて尋ねると仰せられました。
 右のようにお話ししたところ、午後十時過ぎになったのでお暇申し上げ、旅宿に帰りました。
 〆磁石は、高岡御馬出町の錺屋清六が細工したことを申し上げました。