絵図(広域地図) 富山県東部
野田絵図
当初は舟倉野用水の水量が不足していたため、入植農民の中にはこの地を離れるものもいました。そこで、用水を改修して水量を確保し文政12年(1829)新たに農民を選んで再開発することになりました。このとき信由は文化12~14年(1815~17)に作製した11地区の絵図を改め、新たな入植農民とその高を書き入れました。この地区では大野・大沢同様、当初は砺波郡からの入百姓が多くいましたが、文政12年段階では近隣の舟倉村等の農民たちに入れ替わりました。最も開発が難しい西用水の西側の土地85石は高木村藤右衛門(石黒信由)に割り当てられたことがわかります。当初の見積高は344石ですが、天保5年(1834)まで開かれた田畑は109石余で、加賀藩は翌6年草高を120石(35%)と定めました。(縮尺百間3寸(1/2,000))国指定重要文化財