御内用日記
1嘉永三庚戌年九月
御内用
日記
高木藤右衛門
2三州海岸巨細絵図認方
其許中江
申渡候之間、承合早速取懸り出来
可指出候、認かた之義等出府之上
夫々可申談候、以上、
戌八月 改作奉行 印
印
高木村
藤右衛門殿
測量方御用
平七方
但、九月二日ニ至来
3小紙ニ而新七江遣
私義測量方之儀ニ付出府可仕旨御改作所
ゟ被仰渡候ニ付、明十四日出府仕度奉存候ニ付
此段御案内申上候、以上
戌 高木村
九月十三日 藤右衛門 判
御郡
御奉行所
但、九月十三日与十郎ニ為持遣申候
久々江村伊左衛門等ゟ之案内紙面封し候侭状指も
さし置候
一、九月十四日 天気 夜中雨気ニ成
朝五ツ時過ニ宅出立、下人和右衛門ニ
荷物高岡迄為持、同人宅江相返、右代
沖塚原村久右衛門悴忠左衛門召連候、
高岡伏間江屋立寄、今石動山田屋
4 八ツ時ニ着仕候、旦道中福岡村之上橋ニ而
休、岡村之上茶屋ニ而昼喰仕候、
一、高岡赤祖父屋仁右衛門方江立寄、小磁石ニ見当之印
ニ少々筋入、金沢袋町吉田屋小右衛門方江相送候様
申談置候、 山田屋
泊
一、同十五日 雨降
朝六ツ時頃山田屋出立、津幡茶屋ニ而休、金
沢江八ツ時ニ着仕候、忠左衛門を以吉田屋小右衛門
并ニ甚吉方等江案内いたし置候、
金沢桶町敦賀屋
又右衛門方江着
一、同十六日 天気
但、四ツ半時頃ゟ御役所出勤仕候所、川合様
木村遠所出勤ニ而留主ニ御座候、
三通 海岸書抜絵図
5 但、上月様江上ル
壱通三州略図拾枚
高畠猪大夫様江内々ニ而上ル
一、壱枚 三州略図
但、嘉永三年六月出来之分
上月様江上ル、
夕影吉田屋小右衛門、越中屋和兵衛、喜助、弥三郎
来ル、
伏間江屋甚吉来ル、
〆
夜中朴木烝之助来ル、
一、九月十七日 天気
河野久太郎様、同義三郎様、越中屋平七、
吉田屋小右衛門方江見舞、
夜中義三郎殿見ル、
6一、九月十八日 時々雨嵐
四ツ半時ゟ御役所出勤、七ツ時ニ帰ル、
夕影御役所、遠藤様江名札上ヶ候所、
御逢被遊候、小絵図壱枚指上置候、暫ク噺
仕候、罷帰候、
一、九月十九日 天気
九ツ時過平七方江罷越候所留主ニ御座候、
河野義三郎殿方ニ而夕影迄遊、時計師
万助方、越中屋和兵衛江見舞申候、
一、九月廿日 雨降
四ツ時頃ゟ御役所罷出、御改作所ニ
おゐて御絵図調方等被仰渡、尤
平七等承合候様被仰渡候、
7 平七ゟ調方心得之草図御渡、
請取申候
覚
一、壱人 人足
右射水郡平十村列高木村
藤右衛門儀、
測量方為御用、当月廿三日
金沢出立、河北郡高松迄罷越
候之条、宿継人足不指支様
可相心得者也、
九月 奥村甚三郎
高畠猪太夫
津幡ゟ高松迄
宿々役人
8 覚
一、弐人 人足
右射水郡竿取人高木村
四郎兵衛儀
測量方為御用、当月廿二日
高木村出立、河北郡高松迄
罷越候之条、宿継人足、同人
断次第不指支様可相心得者也、
九月 奥村甚三郎
高畠猪太夫
射水郡高木村ゟ
河北郡高松村迄
宿村役人
9 但、右四郎兵衛等之先触為持、忠左衛門
八ツ時金沢出立為致、宅江相返
旅宿ニおゐて
一、御絵図方雑用并海岸御召連
之御扶持方等之書上物越中屋
和兵衛ニ為調申候
九ツ時過役所ゟ帰ル
一、海岸巨細絵図
百間曲尺二寸位、所々ニ在寺庵并
寺号曁人家々立一村切領境
砂浜、石浜ハ頳石、山 萌黄
ハ白
岩石ハ 、田畑ハ黄、道朱
如斯
海河藍 御蔵所
何々ノ蔵
10 竿長壹間六尺也
海岸丁間等調理方与して測量
方御用新田才許高木村藤右衛門
明後廿三日金沢発足、能州口郡
外浦筋相廻候間、御預所敷浪村
海岸領境等之義村役人罷出及
案内候様御申渡被成候様致度候、已上、
九月廿一日 奥村甚三郎
高畠猪太夫
芝山平右衛門様
姉崎石之助様
田内清八郎様
11一、九月廿一日 時々雨ふり夕影気色
四ツ時過ゟ御役所罷出、春来之御扶持
方等も絵図料銀願書付指上申候、但
安田様江
一、御絵図役所ニおゐて能州口郡外浦
之村々領附海岸間数等書出之分
丁間写取、
一、壱枚 平七ゟ
但、能州口郡外浦海岸并山高サ
等書記有之分
一、九月廿二日 天気
但、六半時過上月様罷出御内分申上候所、
河合氏ゟ昨夜帰舘之事故、明日之役所ニ
ニ罷出候様被仰渡候、
四ツ時過ゟ御役所江罷出候所、内分申聞
之事同役中ゟ及相談候旨申聞ニ御座候、
12 一、四百四拾四匁壱分 銀子請取
海岸丁間等為調理方、測量方御用
新田才許高木村藤右衛門明廿三日
金沢発足、能州口郡外浦筋
相廻リ候ニ付、御領所敷浪村海岸
領境等之義村役人罷出及案内
候之様可申渡旨御紙面致承知候
以上、
九月廿二日 芝山平右衛門
田内清八郎
奥村甚三郎様
高畠猪太夫様
但、九月廿二日御役所ニ而写、則平七江
相返し、
13一、九月廿三日 天気
朝五ツ時頃金沢出立、津幡ニ而喜兵衛、
四郎兵衛、忠左衛門一集ニ相成、夕影高
松村江着仕候、
一、指江村ニ而木村権三郎様行逢候ニ付、
海岸之義取調方ニ高松ゟ相初、口郡
外浦江取懸リ可申図ニ而出立仕候旨
上申候、
高松村宗広屋
泊 新助
但、夜中肝煎罷出候ニ付、海之深浅
等相尋、別紙写之通能州口郡
中沼村等江紙面相調、高松村
肝煎ニ相渡、
桶屋呼寄、竹輪之義申談
14 海岸筋町間等御調理方被仰渡、承知
之通ニ候、依而今晩高松村泊ニ而明
廿四日其村領境ゟ手初いたし、其村々
江指向相調理候条被得其意、各領切
被罷出夫々案内有之様致度候旨、尤
道具等持運人足弐人宛可被指出候、
此状先々江急速被相廻免田村ニ而
可被相返候、已上、
戌九月廿三日 高木村
藤右衛門
高松
二ツ屋中沼 右村々
免田 役人中
追而上下四人高松村昼、免田村泊
ニ候条不指支様可被相心得候、以上、
但、夜中高松村役人江御渡
15一、九月廿四日 快晴
但、間竿并竹輪之拾間之分弐口相調、外ニ五歩杖
弐本新出来、代銭等高松村役人江相渡、
壱間ニ付六尺宛
四半時高松出立、同所ゟ持弁当ニ而、
昼浜中ニ而仕、二ツ屋村之しらへ残置、免
田村江着仕候、二ツ屋村領ニ而日暮申候
免田村肝煎
泊 八郎左衛門
海岸筋町間等御調理方被仰渡
候ニ付、今晩免田村泊ニ而明廿五日
昼後北川尻村領ヘ指向相調理候
条被得其意、各領切被罷出、夫々
案内有之様致度候、尤分間道具
16 等持運人足三人可被指出候、為其
如此ニ候、尚此状泊所ニ而相返可被申候、以上
戌 高木村
九月廿四日夜 藤右衛門
免田村
北川尻村
右村々
役人中
追而上下四人免田村昼持弁当
ニ而程能所ニ而相用、北川尻村泊ニ
候条、不指支様可被相心得候、以上
但、夜中相調、免田村役人江相渡
17 覚
河北郡
一、千七百拾間 高松村中ゟ中沼村中迄
一、千弐百七拾三間 中沼村中ゟ波打際
一、五百八拾間 同所ゟ二ツ屋村中迄
〆
右村ゟ村迄之丁間相調書上申通
相違無御座候、以上
戌五月 中沼村肝煎
平右衛門
五十里村
庄右衛門殿
但、右間数竿長六尺三寸也
一、九月廿五日 曇天
朝五ツ時ゟ野方江出立
免田村肝煎
昼 八郎左衛門
18 昼後免田村、二ツ屋村、中沼村海岸
并浜砂山之境相廻リ、日暮而引揚申候、
北川尻村
泊 忠兵衛
覚
一、五百八拾間 中沼村中ゟ二ツ屋村中迄
一、六百八拾間 二ツ屋村中ゟ免田村中迄
一、八百六拾間 二ツ屋村中ゟ浜礒辺
右之通書上申候、以上
二ツ屋村肝煎
戌九月廿五日 市右衛門
高木村
藤右衛門殿
但、中沼村、二ツ屋村、免田村海浅深
同断之旨申聞候、
19 覚
岸より
一、三拾間目 深 壱尋
一、壱丁目 同 弐尋弐尺
一、五丁目 同 四尋半
一、拾丁目 同 七尋
一、弐拾丁目 同 拾尋
一、三拾丁目 同 拾七尋半
〆但、北川尻村境ゟ二ツ屋村境迄間数
弐百八拾間
一、六百八拾間 免田村中ゟ
二ツ屋村中迄
一、弐百五拾間 免田村中ゟ
北川尻村中迄
一、七百弐拾間 免田村中ゟ海岸
迄
〆
右免田村ゟ書上之控
嘉永二年酉十一月
20 免田村領片平之辺又丸山ノ後方平
21 能州境より高松村岸迄三拾壱丁也、
高松ゟ白尾迄沖合深サ岸より三拾間
沖之事一尋程、海岸より壱丁沖弐尋、
同五丁目六尋程、同拾丁沖八尋半、
同弐拾丁沖拾弐尋程、同三拾丁沖
拾六尋、
大崎村ゟ宮坂迄沖之事
海岸より三拾間沖壱尋程、同壱丁
沖弐尋程、同五丁沖六尋半程、同拾丁
沖九尋程、同弐拾丁沖拾弐尋程、
同三拾丁沖拾七尋程
宮坂村より粟ヶ崎迄之事
海岸より三拾間沖壱尋半程、同壱
丁目弐尋半、同五丁目七尋、同拾丁
沖九尋程、同弐拾丁沖拾三尋程
22 三拾丁沖拾八尋程、
石川郡境ゟ向粟ヶ崎村迄拾丁三拾
五間、
向粟崎ゟ荒屋村迄沖合続瀬
岸ゟ沖合百三拾間計ゟ百五拾間計之
間之瀬、瀬之上深八尺計瀬之辺深
壱丈弐尺計、
一、弐百五拾間計ゟ三拾間之間之瀬
瀬之上深壱丈弐三尺計之瀬之辺深弐丈
五尺計、
一、荒屋村ゟ高松辺迄、右同断、
一、同断弐百間計、弐百五拾間之間之瀬、瀬之
上深壱丈弐尺計之瀬之辺弐丈計、
同断四百間計ゟ四百五拾間計之間之瀬ニ
右より沖合瀬形無御座候、尤皆砂
之瀬ニ而年々寄ニ少々宛遠近変
申儀ニ御座候、右海岸ゟ三里計沖合
23 之間浪瀬在之ヶ所、渚ゟ丁等可書上
旨御紙面を以被仰渡候ニ付、私才許河北郡
浦方浪瀬之様子相調理書上申候、以上
高松村肝煎
嘉永二年十二月 幸四郎
能州御境ゟ 拾四丁拾間
海岸高松村中迄
但、同所村中ゟ 弐拾弐丁四拾間
木津村中迄
同所村中ゟ 四丁弐拾間 同所村中ゟ 六丁
松浜村中迄 遠津村中迄
〆此外略之
24 海岸筋町間等御調理方被仰渡候ニ付、
今晩北川尻村泊ニ而、明廿六日同村
并米出村領ニ指向相しらへ候条被得
其意、各領切被罷出夫々被及案内
候様致度候、尤分間道具等持運人
足三人宛可被指出候、此状早々相廻
可被相返候、以上、 米出村ニ而
高木村
戌九月廿五日夜 藤右衛門
北川尻村
米出村
右村々
肝煎
組合頭中
25 追而上下四人北川尻村昼持弁当
米出村泊ニ候条、不指支様いたし度候、以上、
御絵図之上書抜
一、高松村ゟ中沼村江弐十丁
一、中沼村ゟ二ツ屋村迄五丁程
一、二ツ屋村ゟ免田村迄八丁程
一、免田村ゟ北川尻村迄壱丁
一、北川尻村ゟ米出村迄弐拾丁
一、米出村ゟ小川村迄十丁程
一、小川村ゟ今浜村迄八丁程
一、今浜村ゟ宿村迄十丁程
一、宿村ゟ敷浪村迄十八丁程
〆
但、是者海辺之北山高〆六ヶ所
海岸巨細拾壱ヶ所
26 外ニ末森、宝達山
覚
磯ゟ
一、三拾間目 深六尺
一、壱丁目 同弐尋半
一、五丁目 同五尋
一、拾丁目 同七尋半
一、弐拾丁目 同拾壱尋
一、三拾丁目 同拾六尋
〆
一、千百八拾七間 免田村領境ゟ
米出村領境迄 間数
右私共在所海浅深間数相調理書
上申通ニ少も相違無御座候、以上、
27 北川尻村肝煎
嘉永二年十一月 四右衛門
五十里村
庄右衛門殿
北川尻村中程ゟ米出村中迄間数
相調理覚書
一、弐百五拾間 北川尻村中ゟ
免田村中迄 間数
一、千百拾三間 北川尻村中ゟ
米出村中迄 間数
〆
右私共在所ゟ両村中迄之惣間数
相調理書上申通相違無御座候、以上、
―― ――――
――
28 覚
一、弐百六拾間 北川尻村はなゟ
磯海迄之間数
右私共在所ゟ磯海迄之間数相しらへ
書上申通相違無御座候、以上、
嘉永 北川尻村肝煎
四右衛門
五十里村
庄右衛門殿
一、押水組ニハ壱尋六尺与申聞候
一、九月廿六日 曇天
朝六半時ゟ野方江出役、免田村境ゟ相初、
野中ニ而昼仕、夕影米出村江着仕候、
昼後雨時々降ル
29 米出村肝煎
泊 孫三郎
但、米出村家数六拾軒計海之方土居形様
ニ砂山を後ニいたし穴ノ様成所ニ居住仕候、
尤、村中ニ山ノ尾有之、左右ニ家建有之候、
海岸町間等御調理方被仰渡候ニ付、
今晩米出村泊ニ而明廿七日同村領ゟ
今浜村領江指向相しらへ候条被得其意
各領切被罷出夫々被及案内候様致
度候、尤人足三人宛道具持入用ニ候条
不指支様可被相心得候、此紙面急速
相廻、泊所ニ而可被相返候、以上
高木村
戌九月廿六日夜 藤右衛門
30 米出村
今浜村
肝煎
組合頭中
追而、上下四人今浜村昼泊不
指支様致度候、以上、
一、九月廿七日 曇天
但、六半時米出村相済、今浜村ニ而昼仕、
同所
夜中村役人海岸相尋候ニ付、今浜
千六拾間計与申談候、
今浜村
泊 四右衛門
一、今浜村家数弐百八拾軒計
寺庵弐ヶ寺
31 一、今浜村ハ居屋敷 拝領地之旨被聞
猟網ハ七取
御蔵三筋
内弐筋 長弐拾五間ニ四間
壱筋 長拾間ニ四間
浄土真宗東
一、弐ヶ寺
海岸筋町間御調理方被仰渡候ニ付
今晩宿村泊ニ而明廿四日四ツ時前
右村ゟ敷浪村領江指向相調理
申義ニ御座候間、左様相心得各様
之内領切御出不指支様致度候、
尤、分間道具等運方与して人足
三人宛御指出之様仕度候、為其
如此ニ御座候、已上、
高木村
戌九月廿八日夜 藤右衛門
32 御預所
敷浪村
喜左衛門様等
海岸筋町間しらへ方被仰渡候ニ付、
今晩宿村泊ニ而明廿九日昼後
早其村領江指向候条被得其意
各領切被罷出夫々案内有之様
いたし度候、尤分間道具運方
人足三人宛可被指出候、此紙面
泊所ニ而可被相返候、以上、
高木村
戌九月廿九日 藤右衛門
柳瀬出村
役人中
33 追而、手伝人殿村津幡江村喜兵衛
等上下四人泊ニ候間、不指支様
致度候、以上、
但、御預所江遣候紙面ハ封し相渡、
一、九月廿八日 雨ふり
朝五ツ時頃今浜出立、海辺并同所村中
ゟ海辺迄曁炮台辺、尤今浜村中
宿村中迄、夫ゟ宿村ゟ海辺迄之
分間
八浜村
昼 四右衛門
宿村
泊 茂兵衛
一、夜中宿村与一郎見舞ニ来暫ク
噺仕候
34一、当三月下旬頃能州安部屋村
半左衛門船松前江罷越申度候ニ付、隠
岐国之内目貫与申所之沖合ニ懸リ
居候所、異国船壱艘右半左衛門舟見
懸罷越、船之廻リ三扁見廻、其内ニ
異国人四五人小舟ニ乗、右半左衛門舟江
乗移、船中改候得共、荷物無之、船之内
仏段江参リ拝礼与仕、元船罷越候所、
大筒四ツ五ツ打出候所、其煙ニ而元船
相弁リ不申、暫之間ニ弐里計沖江進
居候得ハ、右煙リ消失申候旨与一郎申越申候、
一、宿村領之内字鯨骨与申山相尋
可申事、
但、廿九日朝宿村浜ゟ山ノ尾而巳相見ヘ申候、御上使往来
之西ノ方ニ御座候、
一、九月廿九日 西風
朝五ツ時ゟ野方江出立、宿村領相済、同所
35 領之内浜番人之家ニ而昼喰仕候、此宿之
前井戸有之候、水面ゟ土迄五尺計、尤谷筋々
ニ而人家之前ニ過分之谷筋有之、
宿村浜山番人
昼 善助
海岸筋町間等御調理方被仰渡候ニ付、
今晩柳瀬出村泊ニ而、明朔日同村ゟ
其村々江相移取調理可申条被得
其意、各領切被罷出、夫々為案内候様
いたし度候、尤分間道具等持運
人足三人召連指出候、此状先々
急速相廻泊所ニ而相返可被申候、以上、
高木村
戌九月廿九日 藤右衛門
36 柳瀬出村
柳瀬村
新保村
右村々
役人中
追而、手伝殿村津幡江村喜兵衛等
上下四人、柳瀬村ニ而昼持弁当、
新保村泊ニ候条不指支様
致度候、以上、
但、九月廿九日 柳瀬出村ニ而出
一、九月廿九日 西風雨ふり
朝四ツ時頃ゟ野方江出勤仕、昼当村
之領山番人善助方ニ昼喰仕候、
37 柳瀬出村 出見せ屋
泊 次兵衛
一、柳瀬出村家数 七十壱軒
浄土真宗
一、仰信寺壱ヶ寺
但、新保村之寺庵之由
38一、宿村領之内并ニ御預所敷浪村領之内
同所之続、柳瀬出村、柳瀬村領之内、海
岸ゟ百弐拾間計之上々砂山、平様之ヶ所
弐拾間計、夫ゟ砂山小峯ニ而大躰小松原
多ク平等之様之地元ニ而家建并仮
納屋与之義ハ何時ニ而出来方冝敷ヶ所ニ
ニ御座候、旦かき上等之普請も何時ニ而も
早々出来可申地元ニ御座候、尤砂山
而巳ニ而真土無御座候、柳瀬出村、柳瀬村
領之内海辺ハ小松原之所平等ニ而山江も
可上候地元無之、大躰海面ゟ三、四間計
之高サ之山ニ相見申候、
一、十月朔日 曇天
朝五ツ時頃柳瀬出村出立、敷浪村之海辺
相しらへ、柳瀬村ニ而昼喰仕、夕影新
39 保村浜江出、尤内之方村伝分間仕候
柳瀬村肝煎
昼 佐右衛門
新保村肝煎
泊 久左衛門
海岸筋町間方等御調理方被仰渡候ニ付、
今晩新保村泊ニ而明二日粟生村昼
持弁当、塵浜村泊ニ而指向候条
各領切被罷出夫々為案内候様
可被相心得候、尤分間道具等持運人
足三人宛可被指出候、此紙面先々
急速相廻、泊所ニ而相返可被申候、以上、
高木村
戌十月朔日 藤右衛門
40 新保村
粟生村
塵浜村
右村々
役人中
追而手伝殿村喜兵衛等上下四人ニ候
間、昼泊所不指支様いたし度候、以上、
一、柳瀬村領海辺ゟ村迄之往来、平地
之砂ニ而山坂等無之小松原ニ御座候、
一、柳瀬村七拾八軒家数有之、
井田組
一、新保村人家七拾三軒、
一、寺庵壱ヶ寺、正行寺、浄土真宗、小寺也
東方
41 一、敷浪村塩浜并塩蔵
一、柳瀬村塩浜并塩蔵
〆
一、十月二日 天気西風
朝六半時頃ゟ浜江出勤、新保村、粟生村
相済、夕影塵浜村江着仕候、
一、村伝之道程之義、兵庫村役人
呼出道程等夫々相尋申候、
海岸筋町間等御調理被仰渡候ニ付、
今晩塵浜村泊ニ而明三日同所昼
弁当、其村泊ニ而指向相調理候条
被得其意、各被罷出領切案内方等
不指支様致度候、尤分間道具等
持運人足三人宛可被指出候、尚此紙
面泊所ニ而相返可被申候、以上
42 戌 高木村
十月二日夕 藤右衛門
羽咋村
役人中
追而手伝殿村喜兵衛等上下四人ニ候条、
明泊所不指支様致度候、以上
粟生村
昼 豊右衛門
塵浜村
泊 又右衛門
〆
兵庫村
一、夜中粟津村肝煎夜中罷出候、領付
四百八拾七間七分領附間数之旨申談候、
〆
43一、十月三日 時々雨降リ
朝五ツ時頃塵浜村出立、海辺相済、昼喰仕
昼後羽喰、塵浜両村境等為立会、羽咋村
しらへ方仕候、
塵浜村金田屋
昼 又右衛門
羽喰村肝煎長井屋
泊 平兵衛
海岸筋町間等御調理被仰渡候ニ付、
今晩羽咋村泊ニ而明四日同所昼ニ而
一宮村泊被指向相調理候条被得其意
各領切被罷出、夫々被及案内候様
いたし度候、尤分間道具持運人足
三人宛可被指出候、此紙面急速
相廻泊所ニ而可有返却候、以上
44 戌十月三日夜 高木村
藤右衛門
羽咋村
一宮村
右村々
役人中
追而手伝殿村喜兵衛等上下四人
ニ候条、昼泊所不指支様致度候、以上、
一、弐百軒余 塵浜村人家
一、四百軒余 羽咋村同断
但、此内寺庵三ヶ寺、浄土真宗
正福寺、栄通寺、本念寺
〆
一、羽喰村本念寺未進高三石
45一、十月四日 快晴
朝五つ時頃ゟ分間方ニ出役、羽咋村領之内
唐渡山ゟ相初、昼羽咋川之北浜中
ニ而仕候
羽咋村ゟ
昼 持弁当
一宮村酒屋
泊 兵右衛門
海岸筋町間方しらへ等被仰渡候ニ付、
今晩一宮村泊ニ而明五日同所持弁当
瀧村泊ニ指向相しらへ候条被得其意
各領切被罷出、夫々被及案内候様
致度候、尤分間道具持運人足三人
宛可被指出候、此紙面急速相廻、
泊所ニおゐて可有返却候、以上
46 高木村
戌十月四日夜 藤右衛門
一宮村
瀧村
役人中
追而手伝人殿村喜兵衛等上下四人
ニ候条、昼泊所不指支様致度候、以上
海岸筋町間等御調理方被仰渡候
ニ付、今晩一宮村泊ニ而明五日同所并瀧村
領海岸并村伝筋等相しらへ候ニ付
其村領瀧村ゟ柴垣村へ村伝道
之内迄相懸り候由ニ候条、昼後領切
案内有之候様致度候、為其如此ニ
候間、此紙面瀧村泊所ニ而可被相返
47之候、以上
戌 高木村
十月四日 藤右衛門
野村
役人中
一、十月五日 朝之内雨風、四ツ時頃ゟ曇天
朝之内万尾村次助忰見舞申候
海岸筋町間方御調理被仰渡候ニ付、今
晩滝村泊、明六日同村昼持弁当、柴垣村
泊ニ而指向相しらへ候条被得其意、各領切
罷出、夫々被及案内候様致度候、尤分間
道具等持運人足三人宛可被指出候、此
紙面急速相廻、泊所ニ而可有返却候、以上
48 戌 高木村
十月五日夜 藤右衛門
瀧村
柴垣村
役人中
追而手伝殿村津幡江村喜兵衛等
上下四人ニ候条、昼泊所不指支様
致度候、以上
一宮村南之方山番人之後筋ゟ不動
之社迄海辺ニ塩浜書記可申事、
尤幅十七八間位之事
同所家数百家余、社地之所ハ見取絵図
ニ可仕事
一、碧流寺、西教寺〆弐ヶ寺、浄土真宗
東方
49 一、滝村之人家百三拾軒余
真酒屋
昼 兵右衛門
滝村肝煎
泊 七左衛門
〆
一宮村羽喰領境之辺羽咋村之山畑
多有之、一宮村ノ三ヶ所入合之所、一宮村当
之所多少も有之、寺社方之当リ地ハ
皆無地ニ而山とも平とも可之哉
一宮村領之内蓮池迄海岸五丁計
之旨申聞候
〆
草高 一宮
一、三百五拾石 寺領
内
六拾五石 長福院
三拾弐石五斗 大宮祠
三拾弐石五斗 堅物
50 社之人々
七石五斗 宛
〆
神主拾八人
坊主四人
神子壱人
〆
一、十月六日 快晴
朝五ツ時頃滝村出立、滝崎分間仕、村伝之道
分間致し、滝村ニ而昼仕候、昼後滝村之
しらへ方相済、柴垣村より移ル、五丁程
海岸相しらへ候
瀧村肝煎
昼 七左衛門
柴垣村
泊 助左衛門
一、滝崎ゟ西北之海辺真石平泡三口拾間
計沖合迄有之、岸之辺真石ニ要山、尤柴
垣村之内字三軒茶屋之渡迄如此、
51 三軒茶屋之内坂之下タゟ柴垣村之浜
江下リ候□之所散石ニ至リ有之候、
海岸筋町間等御調理方被仰渡候ニ付、
今晩柴垣村泊、明七日同村昼弁当
大崎村泊ニ而指向相しらへ候条被得其意
各領切罷出、夫々被及案内候様致度候、
尤分間道具等持運人足三人宛可被
指出候、此紙面先々急速相廻泊所ニ而
可有返却候、以上
戌 高木村
十月七日 藤右衛門
柴垣
犱谷
大嶋
右村々役人中
52 追而手伝殿村喜兵衛等上下四人ニ候条
昼泊所不指支様ニ可致候、以上
但、如此申遣候得共、柴垣村障入候ニ付
十月六日犱谷村泊ニ申談候
日入申二十七度三 於柴垣村
一、十月七日 快晴
朝五ツ時頃ヨリ出役、柴垣村障入全相済不申
ニ付、大嶋村泊一日相延、犱谷村ニて泊申談候
柴垣村
昼 助左衛門
犱谷村肝煎
泊 孫右衛門
一、十月八日
朝五ツ時頃出立、四ツ時前ゟ百ふり出犱谷村
相済、同所ニおゐて腰懸昼喰仕候、昼
後柴垣村領ゟ犱谷村領海岸通リ
53 大嶋村茶屋之通迄分間仕候、日入候而引
揚申候
大嶋村肝煎
泊 与三兵衛
一、大嶋村領茄子山高サ大凡五間計
海岸筋町間等御調理方被仰渡候ニ付、夜前
大嶋村泊、今九日同村ゟ長沢村昼弁当
大念寺村泊ニ而指向相しらへ候条被得
其意、各領切罷出夫々案内被致候
様致度候、尤分間道具持等三人宛
被指出候、此紙面先々急速相廻、泊所
ニ而可有返却候、以上、
戌 高木村
十月九日 藤右衛門
大嶋
54 長沢
大念寺
右村々
役人中
追而手伝殿村喜兵衛等上下四人
候条不指支様ニ可被致候、以上
一、犱谷村人家八拾軒
内
五十軒 字中浜、尤海辺近ク
拾五軒 字犱谷、海辺ヨリ七八丁
拾五軒 字長嶋、海辺七八丁
〆
一、大嶋村八拾軒
内神主壱軒
55一、十月九日
朝五ツ時頃大嶋村出立、長沢村ニ而昼仕候
長沢村肝煎
昼 半兵衛
大念寺新村肝煎
泊 太次右衛門
海岸筋町間等御調理方被仰渡候ニ付、
今晩大念寺村泊、明十日同村領ゟ
大念寺新村昼、川尻村泊ニ而指向
調しらへ候条被得其意、各領切罷出
夫々被及案内候様致度候、尤分間
道具等持運人足三人宛可被指出候
此紙面先々急速相廻、泊所ニ而可
有返却候、以上、
56 戌 高木村
十月九日夕 藤右衛門
大念寺
大念寺新
川尻
右村々
役人中
追而手伝殿村喜兵衛等上下四人ニ候条
昼泊所不指支様ニ可被致候、以上
一、十月十日 天気
朝五ツ時頃ゟ野方江出勤、昼大念寺新村ニ而
仕候
川尻村肝煎
泊 与三右衛門
57 海岸筋町間等御しらへ方被仰渡候ニ付、
今晩川尻村泊、明十一日町村領ゟ取
懸リ安部屋村昼泊ニ而取しらへ候条被得
其意各領切罷出夫々被及案内候様
致度候、尤分間道具持等人足三人宛
可被指出候、此紙面早速相廻泊所ニ而
返却可有之候、以上
戌 高木村
十月十日夕 藤右衛門
町村
安部屋村
役人中
追而手伝殿村津幡江村喜兵衛等
上下四人ニ候条、昼泊所不指支
58 様被致候、以上
町村江申入候、明十一日早天ニ人足
三人召連川尻村与三右衛門方迄
可被罷出候、以上
一、朴木村丞之助大念寺新村迄来ル
59 九月十四日
入三拾壱匁 保銀
入弐百文 正銭
〆
外ニ金子有之
九月十四日
一、百八拾文 高岡ゟ今石動迄
人足賃
同一、六文 むくさ
同一、五十文 かき弐拾五
同一、六文 茶代
一、弐百三拾六文 今石動ゟ津幡迄
人足賃
同一、五匁 山田屋清兵衛払
外ニ三匁 酒代
60九月十四日
一、四拾八文 □田紙壱折
一、七文 わらんし
一、拾四文 同断
同十五日 津幡ゟ金沢
一、弐百三拾壱文 迄人足□賃
一、拾五文 津幡茶代
一、百拾七文 しやうふ
一、弐匁 茶
一、弐百六文 たはこ
九月十七日
一、壱匁 表具屋
裏打代
一、四百文 ひんつけ
61 同
一、八拾四文 きん出し
一、五拾弐文 □詰
一、百弐拾文 松茸
一、壱歩 煙草
一、三匁八分 同
一、壱貫拾文 酒五升代
敦賀屋又右衛門へ
弐貫五百五十文 高木屋作兵衛
一、弐拾六匁 買物代
一、七拾四文 紙代
62 九月廿日
一、拾匁也 忠左衛門江渡
一、 鼡半切紙
同廿二日
一、百五拾六文 髪結賃
一、八百五拾文 合羽壱枚
一、弐百五十文 かさ壱かへ
一、弐匁也 磁石袋
同廿三日
一、六匁也 敦賀屋又右衛門
一、壱匁 下女
一、弐匁 男
63同
△、五拾文 にかわみよはん
同廿二日
一、四百四拾四匁壱分
九月廿二日 山田紙三拾枚
△、 壱枚ニ付拾弐文
同
△、 美濃紙
一、弐匁五分 金沢ゟ津幡迄
人足賃