絵図(広域地図) 射水市
射水郡三十三ヶ村与婦負郡練合村申分場所立会見分之上御領境杭松打植分間絵図
文化5年(1808)の大波によって土居(堤防)が崩れたことから、砂入りの地所をめぐって三十三ケ村(加賀藩領)と練合村(富山藩領)との間で争論が起こりました。これは文政2年(1819)争論が決着し、その裁決を記した裁許絵図です。加賀・富山両藩の郡奉行・改作奉行が連署し、後年のため両村にも渡されました。村境には境杭(■印)と松(△印)が6本ずつ植えられました。これにより三十三ケ村は地付きの海を練合村に渡し、海を持たない海浜集落となりました。測量を行ったのは石黒信由の息子信易・石丸村六右衛門・河北郡浅野村安右衛門です。縮尺百間1尺(1/630) 国指定重要文化財